創栄歩歩 visit01~足利尊氏邸・等持寺跡~
2026/04/07
- 創栄歩歩
こんにちは、第一製造部のIRIMOです。
この度、新シリーズを立ち上げました。
題して、「創栄歩歩(そうえいほほ)」でーす!
弊社の近くにある、史跡を紹介するシリーズです。
普段、会社の周りを歩いていると、ちょいちょい史跡を見かけることがあって、ちょっとは気にしていたそんなある日、歴史博士(以下、れき爺)がIRIMOに降臨!
「ならば、調べてみてはどうじゃい?」とお告げが…
実際に、マップで調べてみたら以外とたくさんあって、これ、いけるかも♪(何に? 冊子化?)と思ってはじめてはみたものの、この1作目を作るのに、かなりの時間がかかり、焦る日々を送っています(笑)
まっ、何はともあれ前進あるのみ! 前向き思考でLet’sらGO!
今回の「ここ何歩」は、「足利尊氏邸・等持寺跡」です。
室町幕府を開き、学校の授業でも必ず登場する、足利尊氏の邸跡です。
その史跡がこちらです!

寸 法 高131×幅15×奥行15cm
石標と解説板が立てられてました。
解説板の中身はこちらです。(※)印は、後で注釈つけています。
京都府保健事業協同組合・保事協会館のあるこの付近は、室町幕府初代将軍足利尊氏(一三〇五~一三五八)の「三条坊門第〔さんじょうぼうもんてい〕」(「二条万里小路第」)のあったところである。尊氏邸の範囲については諸説あるが、二条大路(二条通)、三条坊門小路(御池通)、万里小路〔までのこうじ〕(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北二五〇m、東西一二〇mの土地を占めていたと考えるのが最も合理的であろう。尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文三年(一三五八)にはここで薨〔こう〕じた。この地は、のちに「室町幕府」と呼ばれた政権の発祥の地であったわけである。
後にこの邸宅は「等持寺〔とうじじ〕」という寺院に改められた。尊氏は三つの寺院を建てることを願ったが果たせず、そのため「等持寺」という文字の中には三つの「寺」の字が含まれることになったと伝えられている。等持寺は足利氏の菩提寺(※1)として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たした。しかし、応仁・文明の大乱(一四六七~七七)以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院〔とうじいん〕)(北区)に合併されてしまった。近辺に残る「御所八幡宮(※2)」は、尊氏邸・等持寺の鎮守社(※4)であったという。
なお、この地は平安京の条坊表示では左京三条四坊七町にあたり、歌人として著名な右大臣藤原定方(八七三~九三二)の邸宅「大西殿〔おおにしどの〕」があったことでも知られている。後にこの邸宅は冷泉天皇皇后昌子〔まさこ〕内親王(九五〇~九九九)の御所となった。紫式部が『源氏物語』で描く藤壺中宮〔ふじつぼちゅうぐう〕とその御所三条宮〔さんじょうのみや〕は、昌子内親王と大西殿をモデルのひとつとした可能性が高い。
京都府保健事業協同組合は、こうした由緒ある史跡の一角に活動の本拠地を置くことを悦び、組合創立四五周年を記念してここに顕彰碑および解説板を建立する。
一九九五年一〇月一六日
京都府保健事業協同組合
解説 京都文化博物館
以上が、解説板の中身でした。
この解説板は2015年くらいに新しく作り直されたものだそうです。
IRIMO「とても大きな邸宅ですよね。諸説あるようですが…。そういえば、三条坊町って地名ありますよね。」
れき爺「こんな近くに住んでおられたのか。たしかに大きいお屋敷じゃな。」
※1 菩提寺
先祖代々のお墓があり、葬儀や法事を依頼するお寺のこと。
※2 御所八幡宮
Wikipediaより抜粋です。
尊氏の戒名から等持院八幡宮と呼ばれる他、高倉八幡宮、御池の八幡さん、虫(むし)八幡(※3)とも呼ばれる。
IRIMO「確かに近辺にあります。改めて勉強になりました。
高倉と御池は地名から想像できますが、「虫」ってなんでしょう?」
※3 虫(むし)八幡
Wikipediaより抜粋です。
安産と幼児の守り神として有名で、左京区上高野の三宅八幡宮とならんで 「虫(むし)八幡」 と呼ばれる。「虫」は文字通りの「虫退治」という意味もあるが、子供の「かんの虫封じ」の信仰からきている。

こちらは、御所八幡宮です
※4 鎮守社
Wikipediaより抜粋です。
鎮守神を祀る社を鎮守社という。鎮守神〔ちんじゅがみ〕は、特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神である。
れき爺「ところで、足利尊氏ってどんな人なのか知っておるのか?」
IRIMO「な、名前だけ…。そこそこ有名なお方ですよね。」
れき爺「そりゃいかん! そういう事も知っていた方が歴史が楽しくなるというものよ」
IRIMO「そうなんすかっ? じゃあ、調べてみます。」
足利尊氏って、どんな人?
足利尊氏は、鎌倉幕府に仕える武将だったそうです。ですが、その鎌倉幕府を倒すことに…
何故そうなったのでしょうか?
当時、地方の武士たちの間では、不公平な政治に対する不満が積み重なっていたそうです。足利尊氏も、幕府が自らの功績を正当に評価しない事や恩賞が不公平であったことなどにより、支配体制に疑問を持つようになりました。
尊氏は幕府の命令に背いて六波羅探題を滅ぼし、京の制圧に成功したのだそうです。
しかし、幕府打倒後も混乱は続いていたそうですが、その後、足利尊氏は征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開きます。
尊氏の穏やかで温かく、心が広い性格が、多くの武士たちに信頼感を与え、尊氏の元には多くの尊氏推しの武士たちが集まったそうです。
敵対する者に対しても、必要以上にやり返さない所も当時としては珍しかったようです。
ですが、対立時にはその性格が仇となり、どちらにも強く出られず、板挟みになることもあり、部下や周囲の者たちに振り回されることもあったそうです。
それでも尊氏は絶対的権力で支配するよりも、融和を重んじる武将として室町幕府の武士社会に貢献したそうです。
また、「御所巻き」と呼ばれる逸話も残されているそうな…。
これは敵に囲まれた際に尊氏が自らの陣を御所のように見せかけて夜営し、天皇の命を受けているように敵に思わせ、敵のやる気を無くし、要らぬ戦いはしない戦略であったとされています。
つまり足利尊氏とは「征夷大将軍に任じられ、室町幕府開いたすごい人」なのだ!
れき爺のお蔭で勉強になった。そして、歴史にも興味を持つようになったIRIMOであった。以降の散歩はどうなることやら。初散歩はこれにて終了!めでたしめでたし(笑)
●今回の歩歩データ●
弊社から
歩 数:足利尊氏邸・等持寺跡まで およそ488歩
御所八幡宮まで およそ819歩
所要時間:足利尊氏邸・等持寺跡まで およそ5分
御所八幡宮まで およそ8分









